観光客9割減の高山祭で考えた サステナブルツーリズムの未来
(Forbes 2021年4月22日)
https://forbesjapan.com/articles/detail/40951?fbclid=IwAR1VNlA86Hlckxtfhj0_VVwMngPq6W8Wt48a_DxcToU99lwr9BhEKEM9sDA

【ポイント】
このレポートは、2009年に岐阜県庁の観光推進局長の古田菜穂子さんによるものだ。
今年の「高山祭」の2日間の人出は1万9000人。2年前の18万2000人の9割減だった。
祭の人出は18万人が正解だったのか、2万人が正解なのか… そもそも祭りは誰のためのものだったのかを考えたという。そして答えはシンプル。「地域の人のため」のものであり、地域の五穀豊穣、厄病退散、平安安寧を願うものだと、静寂の漂う祭りの中で感じられたという。
今、「サステナブルツーリズム」が盛んに論じられている。訪れる私たちも伝統的な祭りや行事に参画するマナー、お金の落とし方などの観光の在り方について、真剣に考え直すときに来ている。

【 内 容 】

今年は屋台の曳き揃えやからくり奉納、夜祭りは中止に。屋台蔵での公開のみとなった

先日、ひさしぶりに岐阜県高山市にお邪魔した。2年ぶりに開催された春の高山祭「山王祭」を観たいと思ったからだ。本来ならば、昨年の4月に出かける予定だったのだが、コロナ禍の影響で、第二次世界大戦中の1945年以来、75年ぶりに祭りが中止になっていた。

そこで宿泊予定であった旅館の女将とも相談して、「きっと来年なら大丈夫」との想いで1年延期にしたのだった。普段ならば高山祭の日は、国内外から多数の観光客で溢れ、宿泊予約も1年前でないと希望の旅館はとれなかった。私自身も昨年の春の祭りに向けての予約は、一昨年に女将にお願いしていた。

ところが、3月早々、昨年の中止に続き、今年の祭りも規模縮小が発表された。屋台の曳き揃えやからくり奉納、夜祭りなどの一切が中止で、屋台蔵での公開のみ。神事や御巡幸などの祭り行列も、例年の約400人から約30人に限定し、距離も短縮となった。

掲げられたテーマは「令和3年 静かな春祭り KAMISHIMO DISTANCE」。祭りで着るかみしもとソーシャルディスタンス(社会的距離)を重ねた新しい生活様式に基づく高山祭をめざすとのことだった。

それでも、私は出かけようと思っていた。女将にそれを告げると「本当に来ていただけるの?」との言葉が返って来た。その言葉からは、沢山のキャンセルがあったことも容易に想像できた。

だからこそ、私は絶対行こうと決めた。縮小されているといっても、祭りは祭り。逆に静かな高山祭を味わいつつ、たとえほんの少しであっても、現地に何らかのお金を落とすのが、いま私ができる地域へのささやかな応援だと思った。

何より「寂しさ」を感じた高山の町

高山駅に降り立った4月14日は、花冷えと言うより冬のような寒さだった。そのせいか、祭りの日にもかかわらず、駅前は静謐としていた。ガラガラだった列車を降り、改札を抜け、旅館からの迎えの車に乗った。開口一番、運転手さんから「いや、もうほんと参りますわ。でもそんななか、ようお越しくださいました」と感謝の言葉を聞く。

「ほんと参ります」という言葉にすべてが集約されていた。インバウンドの増加をめざして新しく駅前に開業したおしゃれなホテルも閑寂としている。通りを歩く人影もまばらだ。なにより、祭りの日特有の、ワクワクするような地元の人たちの活気が感じられない。

そういえば、高山に来るのは昨年の8月以来だ。そのときのことは、以前このコラムでも書いたが、Go Toキャンペーンが開始されて初めての休日だったこともあり、今日のような雨模様だったが、カップルや友だち同士、家族連れなど、比較的少人数のグループの観光客が古い街並を楽しそうにそぞろ歩いていた。

そして、その日の高山は、オーバーツーリズムを呈し始めていたこのところよりも、観光客が少なくなり、しっとりとした日々の暮らしが息づく高山の街並みが好印象だったと、コラムでも書いたことを思い出す。しかし、その日ともまったく違っていた。何より「寂しい」のだ。

これが、コロナ禍が始まって1年以上が過ぎた「いま」なのだと痛感した。あの頃は、もう少ししたらきっと良くなる、そんな想いもまだ残っていた。でも、今日の高山の町並みには、深い寂寥感のようなものが漂っていた。その感じは単に人がいないからなのか? そう思いながら、迎えの車の窓から流れていく静かな町並みを眺めていた。

旅館に到着すると、馴染みの女将がいつものように満面の笑顔で迎えてくれた。もちろんマスク着用だ。昨年の8月のときとは異なり、フェイスシールドがなくなっただけでも少しホッとした。不思議なものだけれども、女将の顔を見ると、やはり涙が出そうになった。「昨年は3カ月も休業したんよ、おかげさまですっかり太っちゃった」という女将の言葉に気を取り直し、いつもの部屋にチェックインした。

これが本物の祭りの姿ではないだろうか

ユネスコ無形文化遺産にも登録されている、豪華絢爛な12台の屋台で知られる高山祭。縮小となった今年の祭りは実際、どうなっているのだろうと思いながらロビーに降りると、女将から「ちょうどこれから旅館の前を御巡幸(ごじゅんこう)が通るから、ぜひ、観てね」と誘われ、外に出た。

しばらくすると、目の前を小さな神輿を中心に、かみしもに身を包んだ30人ほどの一行が、旅館から80メートルほど先、高山の観光名所である古い町並みの入り口、赤い中橋のたもとに鎮座する小さな社殿の「日枝神社御旅所(おたびしょ)」に向かってゆっくり歩いていった。獅子舞もあったが、動きも小さく、拍子抜けするぐらい静かだった。

御巡幸と呼ばれるこの祭り行列は、氏子の繁栄を願い、神様が1泊2日の旅をするというもので、御旅所が神様の宿所というわけだ。神様は、春の高山祭である山王祭の神社、日枝神社の御分霊として神輿に乗り、本来ならば大行列を組んで氏子区域の家々を巡り、2日目には神社へ帰っていくのだという。

御巡幸を見ながら、「例年なら、もっと延々と祭り行列が続くんよ」と残念そうにつぶやく女将の横顔には、それでもこうして神事が行われたことで、神様に願う、または祈るものとしての安堵に似た喜びも感じられた。

それから私は、町なかの屋台蔵に向かい、いくつかの立派な屋台を見学した。確かに素晴らしい。これが曳き揃えられたらさぞかし荘厳な景色だろうなと思った。

そもそも江戸時代より脈々と続くこれらの屋台を支えてきた職人たちの技術が祭りと結びつき、美と巧緻を追求していまに息づく飛騨の匠にもつながっているのだから。そんなふうに飛騨人はたくましく生きてきたのだと感心しつつも、あまりの寒さに足早に宿へ戻った。

翌日は、前日の寒さが嘘のような晴天に恵まれた。屋台の点検や操作の確認などのために午前9時から1時間だけ、氏子さんたちは屋台を曳くことができたとのこと。私は朝ごはんをゆっくり摂っていたため残念なことにその様子を見ることはできなかったが、氏子さんたちは「2年ぶりに曳けた!」「やっぱり動く屋台は良いな」などと感慨深げに話していたとのことだった。

その後、町なかで、祭りの半纏に身を包んだ氏子さんたちとは何度もすれ違った。酒にはめっぽう強いと言われる飛騨人にとって、祭りにつきものの飲酒も禁止され、そのなかでの不完全燃焼感は否めないだろうなと思いつつ、脳裏に浮かんだのは、そもそも祭りとは誰のためのものだったのかという考えだった。

答えは、いたってシンプルだった。「地域の人のため」なのだ。祭りとは、本来、地域の五穀豊穣、厄病退散、平安安寧を願うものなのだ。それを「観光客が多数集まることを避けるため」に中止したり、神様が氏子のところを巡るのを省略したり、屋台の曳きまわしを中止したのは、本末転倒、あまりにも地域の人々には申し訳ないことなのだ。

一部の屋台では、前述のように1日だけでなく、2日間とも、わずかな時間、点検のために(もしかしたら、それと称して)狭い範囲ながら曳いたと聞き、そこに飛騨人の心意気を感じた。

何より、日に照らされ堂々と輝いている屋台は本当に美しく、静謐ななかでも圧倒的な存在感を放っていた。観光客のための屋台ではなく、地域のための屋台として屋台蔵の重い扉が開けられ、屹立していた。

それらを目の前にしながら、観光客の姿ばかりが目に入るであろう、いつもの祭りの景色とはまったく違う、もしかしたらこれが本物の祭りの姿ではないだろうかと思わせる光景がそこにはあった。

この町に降り立ったとき、私が最初に感じた「寂しさ」とは、単に人が少ないという寂しさだけではなく、地域の伝統の祭りが観光という視点から奪われることへの、地域住民の寂しさだったのではないかと思った。

とはいえ、そこにはまた、観光立市として生きる地域ならではの現実への葛藤など複雑な感情も絡み合っている。

この2年間、地域の人たちは、観光客が新型コロナウイルスを運んでくるかもしれない、でも彼らが来ないと暮らしが守れなくなるとか、祭りで密になり、飲酒で自分たちもクラスターになるかもしれないなど、さまざまな想いや不安を通じ、観光地としての在り方はもちろん、本来の祭りの意味や地域住民のための祭りについて問い直したのではないだろうか。

今年の祭りの2日間の人出は1万9000人。2年前の18万2000人からは9割減だったという。1万9000人が、多いのか、少ないのか。18万2千人が、多すぎなのか、適切なのか。数字だけ聞くと、どちらが正解なのかよくわからなくなる。

サステナブルツーリズムの提唱

いま、観光の世界では、アフターコロナの新しい観光の在り方としての「サステナブルツーリズム=持続可能な観光」が、めざすべき姿として盛んに論じられ始めている。

そもそも、2009年に岐阜県庁の観光推進局長となったときから、私は地域での持続可能な観光地づくりを推進してきたと自負している。コロナ禍があろうとなかろうと、地域資源を活かした持続可能な観光地の在り方こそが、今後の地方の観光の生きる道であると信じてきた。

翻って、高山祭は、果たしてサステナブルツーリズムであったと言えるのだろうか? 2日間で20万人近い人が集まるなかで、神事がいかに行われてきたかや、地域還元型の祭りがどう行われてきたかについては、今年の静かな祭りのなかで、地元の人も、感じたものがきっとあるはずだ。

観光産業と地域の持続可能性との両立をめざす、新しい「祭り」や「観光地」のありかについて、この地の心ある人たちが、いつか正解を見いだしてくれると願いたい。

同時に、そこを訪れる私たちも、もう一度、地域の伝統的な祭りや行事などに参画するときのマナーや、お金の落とし方など、さまざまな「観光」の在り方について、真剣に考え直すときに来ているのではないだろうか。

日本が、真の観光立国としてのサステナブルツーリズムの実践国となるためには、地域での観光のあり方について、提供者としても、訪問者としても、再度見直し、制度として再構築しなければならないものが多々あるはずだ。

次回からこのコラムでは、「サステナブルツーリズムへの歩み 岐阜から発信する未来の観光」をテーマに書いていきたい。

文・写真=古田菜穂子