(平成28年10月4日)参加者数:63名

今回は須田 寛さまの「始めてよろしいですね」からスタートし、定刻を少し超えるまで2倍速のスピードで語っていただきました。

東海道新幹線が開通したのは昭和39年10月。政府から「東京オリンピックに間に合わせろ」の大号令のなか、突貫工事でなんとか間に合わせた。
しかし路盤が安定せず、安定するまで1年半を要した。当初予算も大幅に超過するなど、鉄道のようなインフラは無理な建設計画は決して良くないと学んだ。
当初の列車本数は60本、乗客数1日平均6万人であったが、現在は323本+臨時便で400本強の運行、乗客数は41万人となっている。

次の波は、昭和45年開催の「大阪万博」だった。入場者数6800万人のうち、新幹線による輸送は1000万人だった。
入場者の目的は、①パビリオンの見学、②外国の食事を楽しむ、③新幹線に初めて乗ることだった。
“ひかり”の16両化など輸送力増強に力を入れた。

経営的には「大阪万博後の乗客確保」が命題であり、乗客確保には「観光」しかないとキャンペーンの検討に入った。
この時、力を発揮してくれたのが電通の藤岡プロデューサー。
旅行キャンペ どこそこに行こう」と言うようなものでなく、「旅に行きたいなあ」というムードを作ることの理念から、川端康成の「美しい日本と私」によるディスカバージャパンキャンペーンを行い、これが大ヒットした。
昭和47年は岡山までの延伸。昭和50年には博多への延伸があった。

昭和50年代は不景気で、毎年1兆円の赤字になり、運賃値上げも8回行った。
しかし運賃値上げは乗客を減少させ、“こだま”の減便などで対応した。
労働争議も頻発し、ストライキのため検査・補修ができず、半日運休することもあった。

昭和62年、JR東海が東海道新幹線を継承した。“新大阪駅”は新幹線ホームをJR東海、在来線をJR西と分割した。
「そうだ京都へ行こう」などの観光キャンペーンを展開して、“のぞみ”の投入など高速化と輸送力増強に力を入れた。
今や、JR東海の全収益の85%は東海道新幹線が稼ぎ出している。

平成15年、第2世代の新幹線として、品川ターミナル開業。
“のぞみ”中心のダイヤに刷新。最高時速300km/hへの挑戦などが始まった。

鉄道は「安全安定輸送の確保」が絶対条件だ。新幹線は50年間1度も事故を起こしていない。
しかし阪神淡路大震災の時に新幹線が走っていたらと考えると恐ろしい。今後、南海トラフ大震災も起きるといわれている。
脱線防止ガイドレールの建設など、震災工事に年間1000億円を投入している。

しかし新幹線の輸送力は限界にきており、50年経過による老朽化も進んである。
これらに対応するため、リニア(中央新幹線)によるバイパスラインの建設に着手した。
今後の輸送は、在来線、高速道路、一般道、バス、乗用車など2次輸送を充実させることが重要になる。
リニアを念頭にしたまちづくりが求められることになる。

質疑応答も活発に行われ、リニアの建設ルート、構造、新幹線を活用した貨物など多岐にわたる質問にも、明確に、的確に答えられる須田さまの魅力に圧倒される時間だった。