巨大古墳群築造ミステリー 労働者2千人はどこに住んでいた?
(産経新聞 2023年5月17日)
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【THE古墳】巨大古墳群築造ミステリー 労働者2千人はどこに住んでいた?
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【ホッシーのつぶやき】
仁徳天皇陵古墳の墳丘の盛り土は10tダンプカー27万台、完成まで1日最大2千人が働いて15年以上かかったと試算され、円筒埴輪も約3万本といわれるが、どこで作業され、作業員はどこに住んだのか分からないという。
堺市の泉北ニュータウンでは登り窯が数百基以上見つかっている。仁徳天皇陵の円筒埴輪も約3万本はここで作られたのではという説がある。ここで生活する作業員だけでも膨大な数となり、泉北ニュータウンを中心とする地域であっても不思議ではない。
それにしても多くの古墳があり、一部の地域だけでなく広いエリアに分布し、渡来人が関与している可能性は高い。このミステリーが紐解かれる日を楽しみたいと思う。

【 内 容 】

百舌鳥古墳群の履中天皇陵古墳(手前)や仁徳天皇陵古墳(奥)。巨大古墳を築いた労働者はどこにいたのか

国内最大の仁徳天皇陵古墳(墳丘長486メートル)、2位の応神天皇陵古墳(同425メートル)で知られる大阪の百舌鳥(もず)・古市古墳群。世界遺産として巨大な墳丘や被葬者に注目が集まる一方で、古墳を造った「労働者」については意外と分かっていない。大量に動員されたはずの作業員の住居、副葬品の武具を作った大規模な工房跡などが見つかっていないためだ。100年以上にわたって巨大古墳が次々に築かれた国家的プロジェクト。「遺跡はどこかに埋まっているはず。不思議としか言いようがない」。研究者も首をかしげる。

仁徳天皇陵はダンプカー27万台分
百舌鳥(堺市)・古市古墳群(大阪府羽曳野市、藤井寺市)には計200基以上が築かれ、墳丘規模が200メートル以上の巨大古墳は11基にのぼる。

なかでも仁徳天皇陵古墳(堺市)は、墳丘の盛り土の量が10トンダンプカー27万台分、完成までに1日最大2千人が働いて15年以上かかったと試算。古墳に立てられた円筒埴輪(はにわ)は約3万本ともいわれる。

「1棟の竪穴住居に5人が暮らしたとしても400棟が必要になる。それに見合う住居跡も確認されていない。どこに住んでいたのか」。堺市で約40年にわたって発掘などに携わる白神典之・市博物館学芸員は話す。

この試算は、1日に1人で2立方メートルの土を掘ったという前提だ。しかし「実際に発掘現場で掘っていると、1日で1立方メートルもなかなか掘れない。もっと多くの人が従事したのではないか」と推測する。

「古墳づくりは、土を掘ったり盛ったりするだけではない」と指摘するのは、応神天皇陵古墳のお膝元、羽曳野市文化財・世界遺産室の伊藤聖浩参事。「作業に使う鍬(くわ)などの道具も大量に作らないといけない。作業員のための食料の調達も不可欠。こうしたバックアップも含めると膨大な人が関わったはず」と話す。

応神天皇陵古墳(手前)など巨大古墳が次々に築かれた古市古墳群

古墳からは副葬品として大刀や甲冑(かっちゅう)、矢じりなどの金属製品も数多く出土している。しかし、こうした大量の武器を生産した大規模な工房跡も確認されていない。
「市内で30年にわたって調査しているが、巨大古墳群に見合うだけの作業員の住居や工房跡などがなかなか見つからない。本当に不思議だ」と伊藤さん。

埴輪を生産した窯跡「誉田(こんだ)白鳥埴輪製作遺跡」(5世紀後半~6世紀前半)なども見つかっているが、巨大古墳群の大量の埴輪をまかなうには十分ではない。「ボリューム感が違う」と指摘する。

「建物跡などが見つからなければ、土器から解明できないか」。視点を変えて調べたことがあった。しかし、応神天皇陵古墳などが築かれた5世紀前半に、多人数が生活したことを示す大量の土器が埋まった層は確認できなかったという。

ついに倉庫群発見

津堂城山古墳の築造に際して設けられた倉庫群とされる津堂遺跡の掘っ立て柱建物跡=令和4年3月、大阪府藤井寺市

昨年3月、羽曳野市に隣接する藤井寺市の津堂遺跡で、4世紀後半の倉庫跡が発掘された。掘っ立て柱建物跡7棟が並んだ状態で出土。約1キロ東には、百舌鳥・古市古墳群で最初の大王墓とされる津堂城山古墳(同210メートル)があり、築造時に資材などを保管した倉庫群の可能性が高まった。同古墳周辺には集落跡も見つかっており、作業員の住居とみられている。

調査をした大阪府文化財保護課の原田昌浩主査は「土器の型式から津堂城山古墳と同時期で、この古墳を造るときだけの倉庫だろう」と解説。「応神天皇陵古墳は須恵器が導入された時期の築造だが、津堂遺跡には須恵器が含まれていない。応神天皇陵古墳などにかかわる倉庫でないことは明らか」と話す。

巨大古墳に渡来人関与

土の運搬など実際の作業とは別に、古市古墳群築造の「現場指揮」に関わった集団の遺跡とされるのが、大阪市平野区の長原遺跡。応神天皇陵古墳から北西約5キロに位置する。

現在は町工場や住宅が密集し、巨大古墳群とは縁遠い光景だが、発掘調査によって朝鮮半島系の土器が数多く出土。渡来人が暮らした大規模な集落跡だった。古墳の副葬品に多い玉製品や鉄器の工房跡も見つかっており、朝鮮半島の最新技術や知識を生かして古墳造りを担ったとされる。

一帯には、4世紀後半~6世紀中ごろに築かれた長原古墳群があり、200基以上が確認されている。10メートル規模の小さな方墳が大半で、古市古墳群と時期が合致。羽曳野市の伊藤さんは「被葬者は、古市古墳群の造営にあたって現場を指揮した集団かもしれない」と話す。

長原古墳群は、武人や巫女(みこ)、船など多彩な埴輪の出土でも知られ、一部は国重要文化財に指定されている。「小さい古墳にもかかわらず、古市古墳群の大型古墳にあるような精巧な埴輪があり、両古墳群の関連がうかがえる」という。

「においはするのだが…」

仁徳天皇陵古墳などがある百舌鳥古墳群の状況について、堺市博物館の白神さんはこう話す。

「工房跡など古墳を築造した〝におい〟はするんだが…」

同古墳群の南東部に位置する土師遺跡は、5世紀中ごろに突然出現した集落で、竪穴住居跡などが数棟ずつまとまって見つかった。子持ち勾玉(まがたま)や、鉄を製錬した際の不純物「鉄滓(てっさい)」などが出土。古墳の副葬品などを製作した工房跡ともみられている。しかし、この遺跡だけでは、巨大古墳群の造営はとても追いつかない。

倭国の王である巨大古墳築造にあたっては、大阪以外の近畿やさらに遠方から動員されたとの説もある。堺市内の集落跡などで、遠方の土器がまとまって見つかればその裏付けとなるが、そういう状況もみられないようだ。

謎だらけの巨大古墳群の築造。その数少ない手掛かりが、津堂城山古墳の倉庫跡とみられる津堂遺跡だった。大阪府文化財保護課の原田さんは「倉庫群や作業員の集落など、さまざまな基盤整備が行われたことが発掘で分かった」と指摘。そのうえでこう語る。

「倉庫群が見つかった場所はこれまでほとんど発掘が行われなかった地域。堺や羽曳野などでも、手つかずの場所に遺跡が埋まっているかもしれない」。一つの発見を機に次々と見つかるのが「考古学の不思議さ」。今後の調査に期待がかかる。(小畑三秋)